2015/08/23

次候補『ぼくの名はチェット』


約ひと月前のことである
早いもので もう一月もだいぶ過ぎてしまった
今年はとても控えめな目標にした 50冊/50モデルである
冬休みは何処のも出かけなかったので 既に10冊読みかけが7冊
昨年から取りかかっている新作が10モデルはあるので ちょろいかも
歳を取ると狡くなるらしい
犬のタイトルのついた短編を読んだせいか このところ眠れない日々が続いていた
久しぶりにアマゾンが犬のタイトルのついたものを知らせてきたので 悪いけれどアマゾンでは買わないで
本屋へ出かけた  と言うのは 買い物かごにいろいろとかなり溜め込んでいるので
今は買わないとかクリックしていくのがとてもうざいので 早く読みたいものは本屋へ行くようになった
最近は本屋も気が利いていて アマゾンで知らせてくるものの半数は買うことが出来るし 
注文しても2日で届くようになっている  でよく三条や四条の大垣書店から電話をもらうようになった
『神を見た犬』ディーノ・ブッツァーティ


やっぱりそうだよね という終わり
『若き日の哀しみ』ダニロ・キシュ 創元ライブラリ


3歳の頃白い秋田犬がいて その犬の部屋(納屋)で一緒に寝たことを思い出した
それから祖母が倒れ そして犬もいなくなっていた 4歳になっていた
久しぶりにリーシュをくわえて首をかしげて座っているイプーと会った
—散歩に行こうよ
—なんで
—だって時間だよ
—なんの時間
—だって散歩の時間だよ
—なんで
—なんでって 時間だもん
なんだか どっちがどっちか解らなくなって目が覚めた
それから 棄てきれずにいた 食べきれないまま逝ってしまった薬を混ぜた肉を棄てた
いまでも プーの温かい唇と吐息を感じる事が出来る。



井の頭公園の改堀―空飛ぶ中央線の座ってはいられない60分車窓



吉祥寺の井の頭公園が改堀にあっていると言う
ぼくのパンも食べた鯉もお引っ越しらしい
お池には昔はイトヨも生息していたらしい
なぜかニュースではグラックバスやブルーギルに混じって
自転車も生息していたらしい
自転車も最近はそうとうな繁殖力である

いつもこの時期 東京の春になる前の冬の光が懐かしい

*頼まれて書いた文章からの引用*

―お茶の水から新宿まで
かつての学生街
与謝野晶子が詠んだニコライ聖堂の鐘の音のお茶の水で神田川を殆ど下に見て
オレンジ色の電車は四谷へ かつての国鉄中央線の初乗りは30円
水道橋から外堀沿いに土手の桜並木や釣り堀など長閑な風景が流れて
四谷をなかにして どことなく微かに凛とした帝都の匂い漂う市ヶ谷あたり


―新宿から国立まで
新宿から山手線と分かれる広い土手に春からいろんな花が咲く
アブラナ ハルジョン ヒメジョン ムラサキソウ
中野のディープなサンモールからブロードウェイへ
高円寺から西荻窪のあいだ’70~’80年代の団塊世代のラブハウスや茶店
吉祥寺井の頭公園―武蔵野の面影とサブカルチャー・ポパイ世代の水道道路
夜中にフリスビーをやった伊勢丹前の噴水で成蹊の講義帰りに小休止の中村草田男
三浦屋で買ったワインを下げて大股で歩く赤いマフラーの埴谷雄高
はるばる屋横の中レコードをチェックして
結城座が始めたくぐつ草の岩戸の次は井の頭の猿のダイビング見物と水族館


フォーク世代の核心国分寺
村上春樹の最初のジャズ喫茶もほんやら洞や寺子屋の近くにあった
今はブロカントでおしゃれにになったガラクタヤ
大学通りの国立 邪宗門はやめてしまったけど ロージナ茶房は今も健在
何と言っても富士見台の歩道橋から駅方向を見渡す大学通りと線路土手のユキヤナギ
一橋のグランドで4人でやった三角ベースボール
そのあとぶらぶらと富士見台のひょうたん島へ一杯200円だった


み~んな窓の下  乗るなら西日差す夕暮れ時がいい



Stand by Me - またふたりとおまけ

朝台所に降りていくと サンドウィッチが
しかもそれはテーブルの上に そんなことは 
ついこの間までの犬たちとの生活ではと考えてしまう
ぼくはそれを一度に平らげる事が出来ない
Stand by Me
just as long as you stand 
Stand by me


先日模様替えをした台所で 時間を気にしながら 
コーヒーを落とし つい視線を探しては 
出勤前の慌ただしさのなかの 引き延された数分間が漂う 
フローリングの床に爪をならす音が聞こえないことの不思議 
So Darling’, Darling’, Stand by me
Oh,stand now
Stand by me


食べきれなかったサンドウィッチと残したコーヒーは  
昼食のために はみ出したミモレットは  
朝の光の反射に白んで色をなくしている 
散歩のためにと買ったばかりの小さな赤いポットが寂しい  
And Darling’,Darling’
Stand by me
Oh,Stand by me


玄関へ向かう肩越しの視線は 
靴をはく耳元のあたたかい吐息を想い返しては 
そして 戸を閉める音に耳を傾ける君を想う 
たった今からそれらを忘れていく それがまた悲しい 
Whenever you’re in trouble
Wont you, Stand by me
So Darling’, Darling’, Stand by me
Oh,stand now
Stand by me






――ぞろ目をふた月を過ぎてて思う

------ 人に指摘された頬の食べ滓を ぼくは上手く拭えない ------
むかし宮川淳という人がいた
「鳥の羽のように折りたたまれ、
本を開くことによって象徴的にくりひろげられる空間……
そのとき、憑きまとう意味の亡霊から解き放されて、
すでに別の軽やかな意味作用へ、
あの≪ほとんど振動性の消滅」へと向ってすべりはじめるのでないならば、
ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、
本とは苦痛以外のものではないだろう。」
ぼくは学生時代 この”本“を“記憶”とりわけ”現象”として読んだ
後年 鏡を前にして記憶にさらにノスタルジアを付け加えたが 
違和と不安もさらに積み重ねられた
“鏡を前にして左右を言い当てる確立は半分である”というのは 
クラスフレームの問題を棚上げにしても
このいつも燻りつづける重化という符合をきれいさっぱりと無効にはできない
なので 最近は その人が許すならば 
食べ終わる迄頬は拭わないことにしているし 
切ってしまった後ろ髪など 
自分では気にしないことにしている 

――ぞろ目を前にして思うー20年計画“即身仏への道”

50歳を過ぎて肉を控えるようになった
と言うと菜食主義?と言われるので そんな高尚なものじゃないんです と答えることにしている
それから体重がそう変わったわけではないので いい加減なものではあるのだが
会食ですすめられれば断りはしないし 客が来た時には料理して一切れほど味をみる為には食べるし 
外食では人参のようにいちいち避けたりもしないし トンカツを食べる回数は以前より多いかもしれない
フィレンツェに行ったらビステッカ・アッラ・フィオレンティーナを我慢出来る自信はないのだが 
白くて大きくて美しいキアーナ牛に “美味しく生まれついたお前が悪い” とはとても言えない
出来るだけ善いことは出来るだけはしておきたいのだ 
といのはやはり死んだ後が気になってきたのかもしれない 解らないのだが 解るわけがないのだが 
もし何かのヘマな理由で 待っているかもしれない ゲクランやキーツと会えなくなる理由は 
絶対に作りたくない
というわけで自分たちの食べる分では殆ど肉は買わない
60歳迄にはまだ時間があるので多分大丈夫だと思うし 周りの人も理解してくれるのではないかと思う
それから 10年かけて魚介類をやめて 70歳では穀類だけにしようと思っている
残りは子供もいないし余計なのだから 豆と葉っぱだけ しわくちゃな奇麗な体づくり とういうわけだ
しかし “オカズデザイン”の『豚ごはん』美味しそうだなぁ~
20年も経つと随分変わるんだろうなぁ~ とも思う 

――キーツの耳はウサギ?の耳 ―ようこそ不思議さの中へ

物質が意識を持つという事をどう記述すればいいか その方法をぼくたちは知らないが
意識という事すらよく解らないのだから
解っている事言えば 
始まりも知り得なければ また終わりも知り得ないだろう という事だけだと思う
リアルなこの感覚の意識からいうと なんと不思議な事だろうか
そういった意味では 脊椎動物には非常に連帯感を感じるし
同じ哺乳類にはさほど違いを見いだせない
犬たちと暮らして思う事は 
感覚の蓄積の記憶から引き出す意味という作用の構築の多さと
複雑さに関しての傲慢な思いだけのような気がする
意味とは作用であり 作用は構築されて成立するものであり 
それは事化されることで 物象化される
事化ということは言語化と同義であり 物象化とは語られることである
そして語ろうとする意思は 想像と抽象において誤謬の対象となる
物が意識を持ち意思を構築して物を作り出すことの なんと不思議なことか
この不思議さは フーコーの言葉を借りれば 
“賭けてもいい 砂に描いた顔のように消え去る”

ぼくたちは犬たちと暮らし始めてから6年余りになる
決して長くはない
その間に4頭の子たちと暮らし  2 頭の子たちが旅立っていった
未経験で超大型の生まれたてのボルゾイと暮らし 
ぼくたちの年を遥かに超えた老犬と暮らし
そして今 青年期から犬の黄金期にさしかかる子をレスキュー団体から引き取った
考えてみれば無謀な選択で 全てがはじめてのきらきらとした世界と
一転して 安らぎ中で静かに老いていく姿を見るという 
そして 今真ん中を埋め合わせているという 変な暮らし方ではある
というのも最初の子が約束を破って さっさと神様の所へ帰って行ったからだ
今でも よく一人で逝けたものだと思うし よくぼくたちの所へ来たものだと思う
ぼくたちの方が 彼と神様との約束を判らなかっただけなのかもしれない

最初の子には母犬のティグラの gula をとって guesclin ゲクランと名付けた
母親に似て優しい美しい犬に育った 
ローマンノーズの鼻梁からアーモンドの目尻 細く隆起する眼孔と額 後頭の尖り
それから口元から耳 その付け根から首筋を 
とくに風上に面をかざして空気の匂いをとる姿を 
また 深い胸から後へと切れ上がる内股 背から大腿にかかるアーチ 
細い脚の躍動を ぼくたちは愛した
ゲクランがそういうエアーセントをする時は ぼくたちはそーぅと忍び足になった
繁殖を引退したティグラとそのペアの父犬を引き取るのが はじめからの夢だった
ゲクランとは思いもよらず2年しか暮らせなかった
新しい子犬を と言うブリーダーを説得して 父犬をキーツと名を変えて迎えた
残念な事にティグラは既にこの世にはいなかった

キーツは9歳を越えて 海の日にやってきた
涼しくなる秋まで待とうかとも思ったが 
初めて会った時はジャンプして迎え 帰るな行くな とすり寄ってきた若々しさが 
犬舍の内という運命を淡々と受け入れている姿の変わりように耐えられなかった
その年の7月 犬舍の坂を下って千曲川に散歩に出かけた
思った以上に脚が弱っている事に気づいて 歩みを止め木陰を見つけ涼をとって
ぼくたちは キーツの眼差しに未来をみた
蜩の鳴き始める静かな昼下がりだった 

それからキーツは4年間ぼくに眼差しを送り続けた
昨年から急に老いが目につくようになるつれ ぼくの方は忙しくなった
出かけるぼくを目で送り 帰ってくると 
真っ先にじたばたと 撫でてもらいに顔を寄せてきた
気がつくと 遊んでいるときのように耳を立てるようになっていた
微熱が続き目脂が多くなって 取りきれなくなった時 そのあくる日を告げた
それが キーツとの約束だった 
そして 最後までその足音を聞いて 耳を下ろすことはなかった
膝の上で痰が絡まる弱い呼吸が途絶え ほっと脱力して各々顔を見合わせた時
抱いている手を持ち上げるように 顔を近づけて2度深く呼吸をした
最後までキーツらしく ずっといつまでも一緒にいたいのだと 
嬉しく思ったが 何かしっくりこないものを感じながら
なぜか“犬の十戒”の出典が気になったりして 日々が過ぎていった
あとで やはりそれが思い違いである事を知った
ある日疲れて午睡をとっていると ゲクランに教えられた

キーツがいなくなった悲しみは ひと月 ふた月と
日を追って増してくるように思う
今こうして ヴィヨンやイプーを見ていると 
なにかこう 華やかなバラ色に輝いていたゲクランとの日々が突然終わり
(ゲクランと暮らした日々は別に書いた)
凛として老いに向かい合ったキーツと静かに暮らした日々が 深々と懐かしくありがたい

そして キーツのいない事が不思議であり キーツと出会った事が不思議であり
キーツと暮らした事が不思議で また キーツが無くなってしまった事が不思議だ
そして この大切な記憶がいつかは無くなってしまう事が 不思議だ
この不思議さに反転しそうになると  mac に取り込んだスライドを見る
そして ヴィヨンとイプーと一緒に帰る時にも消さないで そのままにしておく
ふたりに一日の終わりの匂い取りと排泄をさせながら
誰もいないぼくの部屋中に 記憶の光の粒子が音符に攪拌され混じりあって
グクランとキーツがふりおりて形になっていくのを感じる
ふたりが鼻先をこちらに向け 遠くから眼差しを送る姿を想い描く




―亡き王女のためのパヴァーヌ - 中川昌三 - スティル・エコー Ⅱ ー
―そのあくる日 ( ゲーラ )- 大萩康司 - シェロ―

犬の十戒
1. My life is likely to last ten to fifteen years .
私の一生は10から15年くらいしかありません。
Any separation from you will painful for me.
ほんのわずかな時間でもあなたと離れていることは辛いのです。
Remember that before you buy me .
私のことを飼う前にどうかそのことを考えてください。

2. Give me time to understand what you want of me .
私が「あなたが私に望んでいること」を理解できるようになるまで
時間が必要です。

3. Place your trust in me- it's crucial to my Well-being.
私を信頼して下さい。それだけで私は幸せです。

4. Don't be angry at me for long and don't lock me up as punishment.
私を長時間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないで下さい。
You have your work , your entertainment and your friends .
あなたには仕事や楽しみがありますし、友達だっているでしょう。
I have only you .
でも、私にはあなただけしかいないのです。

5. Talk to me sometimes .
時には私に話しかけて下さい。
Even if I don't understand your words, I understand your voice
when it's speaking to me .
たとえあなたの言葉そのものはわからなくても、私に話しかけて
いるあなたの声で理解しています。

6. Be aware that however you treat me, I'll never forget it.
あなたが私のことをどんな風に扱っているのか気づいて下さい。
私はそのことを決して忘れません。

7. Remember before you hit me that l have teeth that could easily
crush the bones of your hand
but that I choose not to bite you .
私を叩く前に思い出して下さい。私にはあなたの手の骨を簡単に
噛み砕くことができる歯があるけれど、私はあなたを噛まないように
しているということを。

8. Before you scold me for being uncooperative , obstinate or lazy ,
ask yourself if something might be bothering me.
私のことを言うことをきかない、頑固だ、怠け者だとしかる前に
私がそうなる原因が何かないかとあなた自身考えてみて下さい。
Perhaps I'm not getting the right food , or I've been out in the sun too long
or my heart is getting old and weak .
適切な食餌をあげなかったのでは?日中太陽が照りつけている外に
長時間放置していたのかも?
心臓が年をとるにつれて弱ってはいないだろうか?などと。

9. Take care of me when I get old ; you, too, will grow old
私が年をとってもどうか世話をして下さい。あなたも
同じように年をとるのです。

10. Go with me on difficult journeys .
最期の旅立ちの時には、そばにいて私を見送ってください。
Never say, "I can't bear to watch it ." or " Let it happen in my absence."
「見ているのがつらいから」とか「私のいないところで逝かせてあげて」
なんて言わないでほしいのです。
Everything is easier for me if you are there .
あなたがそばにいてくれるだけで、
私にはどんなことでも安らかに受け入れられます。
Remember , I love you .
そして , どうか忘れないで下さい。私があなたを愛していることを・・・
― 作者不詳






――キーツの耳はうさぎ耳  その1―不思議という事

前回はある出来事と別の出来事を安易に関連づけてしまう符合ついて述べた
ぼくは記憶の方法として ある範列の基におこなわれていく自然な抽象化を
なすがままにしておくが それを止めてまである出来事に意味を問う事はない
出来事に意味を問うという事は 出来事自体に本質を見ようとする事であって
それは 出来事を見る視点 それを見ようとする意思 見たいものを見る事
自ら自身を見る事である
また出来事は連続した帯の瞬間であり その可能性と不可能性の要素は膨大で
その解析は神の領域となる
その意味において符合が立ち現れるのであって 何かの本質が現前するものではない
自己という近代的知性の方法である 遠近法的視点が立ち現れるだけの事であり
ぼくに言わせると それは偏見でしかない
倫理的に言って 出来事とはあくまでも他者として 扱わなければならない
ある出来事を超越的に扱い別の出来事と 意思というボイドで繋ぐ必要はない
自らを見るというなら 周りの友人達を見れば十分だ
それに 意思がいかに弱いものかという事は 日常的に経験している事だ
出来事から意味を問うて本質を見出そうという事は 悟りか夢見に似ていて
無限遠点に赴向く事を許される者はそうはいない
正当な宗教―カルトではない―では 改宗において―宗教は常に改宗を迫る
初歩的な逸話としてそれを誘うが 信仰が深まるにつれ禁止され 無意味だとされる
意味があるとするなら 存在にしか あり得ない
自分が今生きているという事は それはそれで不思議で すばらしい事だと思う
世界の了解とは そこから始めなければならない
世界が匣ではない事を認めるのに 随分と時間がかかったし
いまでも 数直線の0を認めるのと同じように うまくいかない時がある
それを何となくにせよ納得しようとしたのは 量子論に触れたせいだと思う
こう思うのも熱力学第2法則を認めるからだ
ぼくにとっては まさにここが時間の生まれる所だ
そして この時間とは決して一様でも 複雑でもないが
突き詰めて思えば 根源的な不思議さに向かい合う事になる
どのような不思議さかというと 
ぼくは自分自身を予めプログラムされた機械ではないと 証明できないし
という事は 世界もそういえるという事だ
まだ小さかった頃 病弱の母が家でぼくの帰りを待っている という事が
うまく呑込めずに 寝ていたはずの母に何をしていたか とよく聞いたものだ
学校で先生に怒られている時や道草をしている時に すぐ後ろにいなかったと
どうしていえようか よくそう思っていた
存在と不在の閾の不思議さは ぼくの思索(こう言えば何だか高尚な事のような響きだが)の
原風景であり  何処から来てどこへ行くのか というこの問いに
解を得られる事はないと思うが 厄介な隣人として扱う術を持ち合わせていない訳でもない
また 隣人として礼儀を尽くせば それなりの恩恵にも与る
しかし存在と非在の閾の不思議には 踏み越えがたい深々たる悲しみが横たわる