2015/08/23

――ぞろ目をふた月を過ぎてて思う

------ 人に指摘された頬の食べ滓を ぼくは上手く拭えない ------
むかし宮川淳という人がいた
「鳥の羽のように折りたたまれ、
本を開くことによって象徴的にくりひろげられる空間……
そのとき、憑きまとう意味の亡霊から解き放されて、
すでに別の軽やかな意味作用へ、
あの≪ほとんど振動性の消滅」へと向ってすべりはじめるのでないならば、
ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、
本とは苦痛以外のものではないだろう。」
ぼくは学生時代 この”本“を“記憶”とりわけ”現象”として読んだ
後年 鏡を前にして記憶にさらにノスタルジアを付け加えたが 
違和と不安もさらに積み重ねられた
“鏡を前にして左右を言い当てる確立は半分である”というのは 
クラスフレームの問題を棚上げにしても
このいつも燻りつづける重化という符合をきれいさっぱりと無効にはできない
なので 最近は その人が許すならば 
食べ終わる迄頬は拭わないことにしているし 
切ってしまった後ろ髪など 
自分では気にしないことにしている